葬儀委員長 挨拶文


故人、森松幹雄は、昭和5年7月3日に、神戸市に、森松シメ太郎の次男として生を受けました。
昭和20年、故人15歳の時 終戦を迎え、戦災の神戸から父、シメ太郎の故郷である福岡県女郡星野村に家族と共に転居致しました。

二十歳までの5年間を、勉学と勤労に精を出し星野村で過ごしましたが、志を立て、成人式を挙げてすぐ、わずかな知人を頼り、戦災の傷痕の残る東京へと上京して参りました。
上京し、知人の紹介により大洋写真工芸社様(現在の株式会社ニチマイ様)に勤務し経済的に自立すると共に、大学に学び、日本大学経済学部を卒業致しました。

その後、約10年間勤めた同社を退社し、昭和37年、国際マイクロ写真工業社を設立致しました。
創業当初は、目指すように会社も進まず、困難の連続でありましたが、本日お越し頂いている皆様、残念ながら本日お越し頂くことができなかった皆様、そのほか数えきれない程の方々のご理解、ご指導、ご厚情により、 国際マイクロ写真工業社の本日の姿を頂くことができました。

故人、森松幹雄は、今より13年前、仕事中に容体を悪く致しました。
容体を悪くする前の故人は、朝起きてから夜眠りに就くまで仕事仕事の毎日でありました。会社から帰宅しても、遅くまで書類の整理、社員の帰った会社に戻っては機械の改良調整、製品の仕上げ、特に歴史資料のマイクロ化に意欲的に取り組み、寝る間も惜しむような毎日を送っており、働き過ぎないようにとの忠告を周りの多くの方々から頂くこともしばしばあったと聞き及んでいます。

ところが、その病気を機に、それまで傍らで仕事を学ばせてきた次男義喬(よしたか)に、会社のことを任せ、妻澄子と共に、パックツアー等の情報を検討しては日本国内は元より、アメリカ、ソ連、中国等世界各国を旅行し、今より6年前、二度目に病に倒れる迄の7年間を、より有意義に人生を楽しむための時間として持てたことは、今となっては故人にとっても良きことであったろうと思われます。
今より6年前、二度目に病に倒れた後は、妻澄子と娘久恵の手厚い介護を受け、これまでの日常的な動きが一人の力ではできなくなってからも、自棄にならず、むしろ子供の様にアッヶラカンとした天真燭漫なさまが強くなり、周りの者に喜びや不快を、そのまま包む事なく現わしておりました。故人、森松幹雄が、健康である時もそうでない時も、常に前向きであったことは、家族の者にどれほどの喜びを与えたか言葉に余るものがあります。


故人の座右の銘は、中国の古い政治家である魏徴の「人生意気に感ず」でありました。
一見この聞き慣れた言葉を座右の銘としたのは、この言葉をその身をもって現わすことが大変難しいことを、故人が知っていたためではないかと思われます。それゆえに、故人の人生は、「人生意気に感ず」という短い言葉に自身を照らしてみて、恥ずるところ、怠けるところがないかということを常に念頭に置いていたのではないかと思われます。
病に臥してからの故人は、病により、その言葉を忘れてしまう事なく、病の床にあってもそこで現わすことのできる限りの「意気」を、悲痛な姿ではなくむしろ前向きに現わそうとしておりました。

平成13年1月18日、午前7時50分、最期の灯が尽きるまで貫かれたその姿勢は、それを見守る家族の者に、哀しみの中にも、生きて行く姿勢の手本を最期まで示してくれたことに対する、大きな感動と勇気を掴み取らせてくれました。

戦中、戦後からこれ迄、まさに激変する時代をくぐり抜けてきたその道程は、天下の大道を外れる事なく、息子や娘の人生の手本となるには十分なものではなかったかと思われます。
今ここに、森松幹雄の生涯の幕を閉じるに当たり、生前故人がお世話になりました皆々様方に、お送り頂けることを大変有難く存じます。
本日は、お忙しく又、雪が残り足もとの不自由な中、故人、森松幹雄の葬儀にご参列頂きまして誠に有り難うございました。謹んで御礼申し上げます。

葬儀委員長: 山本忠利