喪主ご挨拶文
創業者:森松幹雄
享年70歳:
 写真は50歳頃


株式会社 国際マイクロ写真工業社を代表いたしまして、謹んで当社 創業者、取締役会長、森松幹雄の 霊前にて 告別の言葉を申し上げます。

父は生前、家庭では 『過去の話』 をほとんどしてくれませんでしたので、母や親戚から伝え、聞いていた話を交え、僭越ながら父の 若き日の姿をお話させて戴きます。



父 森松幹雄は、祖父(そふ)シメ太郎、祖母(そぼ)ツタエの次男として、この世に生を受けました。
祖父シメ太郎は、福岡県八女郡、星野村の生まれであり、昔の事としても、義務教育の課程中はいつも首席を通し、その様な祖父(そふ)は、山深い、山村の将来に見切りをつけ、教育課程 終了後、単身県ざかいの耳納山(みのうざん)を超え、浮羽郡(うきはぐん)に出て、神戸までたどり着いたそうです。
そこで三菱重工のテストを受け、入社を許され、田舎より祖母を迎えて、昭和5年7月に父が誕生しました。
その後、祖父は見出され、軍需工場をまかされるまでとなりましたが、戦争で、工場も家も焼かれ、一家、身一つで九州の田舎へ 引き揚げて参りました。



その時、父は工業高校二年生であり、向学の念絶ち難く、祖父に進学をお願いしたそうですが、祖父は、残ったお金をかき集めて、牛を買い、父に与えました。
父は自分の体が、隠れてしまいそうなほどの牛を引いて、雨の日も風の日も 山の木の 運搬や 農耕に駆り出される毎日であり、生活のために 働きました。
夜になると、暇をみつけては、特産の八女茶を袋に詰め、自転車で福岡まで売り歩きました。

その間、青年会の弁論大会に優勝し、成人式では成人の代表として、「宣誓・せんせい」の言葉を述べました。
それと同時期、田舎での見通しの立ちにくい将来に悩み、友人の家で、読み 出会った「人生、意気に感ず」との言葉に 将来を定め、座右の銘として、祖父と同じく トランク一つで成人式終了後に 故郷をあとに致しました。



昭和26年、東京神田の大洋写真工芸社、(現在の株式会社 ニチマイ様)にご縁を戴き、約10年間 勤めさせて戴きました。
その間、旧制中学、大学と夜学に通いました。又、田舎の祖父と祖母と あいついでの死別があり、その仏事法要は何を置いてでも、遠路九州までの帰省(きせい)を 欠かしたことはありませんでした。

それゆえ支出が多く、当時の暮らしぶりは、のちに母が嫁いだ時に見つけた支出簿に、一日コッペパン一個と缶詰のみ と書かれた日々が続いておりました。 
遅く帰る為、はんごう器と電線コンロでご飯を炊き、いつも待ちきれずに 生煮えのご飯を食べたと聞きます。
電気炊飯器を買えたときの感動は生涯忘れられない と申しておりました。 
また永い間、傘を買うことが後回しとなり、雨の日は新聞などをかぶり、軒下から軒下を走る自分自身を「惨めでは」と感じたときがあったそうで、そのときが一番泣きたくなった時 と聞きます。

その様な生活で体がもちこたえられたのは、田舎生活の労働の賜物であり、小学校時代、虚弱体質だった体では 到底挫折していたが、苦労、努力は、先々何らかの形で報われるのだと 話してくれました。


10年後、父は当社創業の為に 独立させて戴きました。私の知る限り、父は家庭においても会社においても、嘆きやねたみ、悔み事など言わず、又、「疲れた」という言葉も一度として耳にした事がございません。


どんな苦しい時代でも 仕事に やり甲斐と誇りを持ち、厳しく楽しく、生きぬいて参りました。
時にカミナリ、満面の笑顔、 天心爛漫な生き方で、努力し、前向きな意志を貫きとおした父の生涯は、本当に 幸せな一生であったと思います。


 最後となりましたが、
会社・遺族ともども、故人、森松幹雄の告別式にご参加・ご協力戴いた方、又、雪で足元の危ぶい中、お見送りご列席戴きました 皆様方のご厚情に 心より 感謝申しあげます。 本日は ありがとうございました。

喪主: 森松 義喬