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「特集」阪神大震災 目次
阪神大震災と資料保存機関の被害 
〜5機関6施設現地調査報告〜

『月刊IM』'95年6月号掲載
国際資料研究所
小川 千代子 (おがわ ちよこ)

1.尼崎市立地域研究史料館 4.芦屋市立美術博物館 3月の再訪
2.西宮市役所行政資料室 5.深江生活文化史料館 まとめ
3.西宮市行政資料室分室 6.神戸市役所2号館


特集 阪神大震災   特別レポート3
阪神大震災と資料保存機関の被害 〜5機関6施設現地調査報告〜

国際資料研究所 小川 千代子 (おがわ ちよこ)

   
1995年1月17日 (火) 未明、震度7の烈震が阪神地域を襲い、神戸市および阪神地域に、想像を絶するような大きな被害をもたらした。犠牲者の人数、神戸・長田区の大火など、一般の耳目をそばだたせる報道は多い。こうした報道の影に隠れて新聞やTVではあまり取り上げられることもない地域の資料保存利用機関の被害の実態を見るため、1月31日 (火)・ 2月1日 (水) の両日、藤沢市文書館の細井守さんとともに現地に入った。

現地では1月31日は金山正子さん (大阪府公文書館、全史料協近畿部会)、2月1日は高橋正雄さん (阪急電鉄史料管理室、全史料協近畿部会)に訪問先へのご案内をお願いし、閉館・閉鎖のものを含め5機関6施設 (尼崎市立地域研究史料館、西宮市役所行政資料室、同分室、芦屋市立美術博物館、神戸市深江生活文化史料館、神戸市役所2号館) を訪問した。うち3機関4施設では職員の方々から直接被害や復旧についての詳しい状況を伺い、内部の被害の様子をつぶさに見学させていただいた。

以下、館内の訪問当時の状況や、被害、復旧、それに筆者のコメントを訪問先毎にまとめた。




1. 尼崎市立地域研究史料館


館内の現況:
閲覧室使用可能、ただし、資料によって利用で きないものあり。書庫は復旧作業中。文書はほぼ復旧。行政資料、雑誌などが整理・配架を待っている。使えなくなった書架の代わりが入るまでは、配架できない。職員は市民対応に動員され、半数程度の勤務。コンピュータは使える。プリンターは部品交換を待っている。

被害:
書庫内の書架が将棋倒しになった。書架上の資料が散乱。スチール書架は、ぐにゃりとまがって使えなくなった。移動式集密書架は、周辺から倒れてきたスチール固定書架に押されて、脱輪・形もゆがみ、修理不能。

復旧:
1月18日から着手。始めは室内を見て回る。スプリンクラーが作動していないのが確認できたときはほっとした。水濡れの被害が無い事がはっきりした。床に落ちたものを拾い上げ、倒れた書架を立て直した。文書庫の衣裳箱のような缶に納めた文書はあまり傷んでいなかった。行政文書にわずかな傷みあり。コンピュータには書架が倒れかかったものもあるが、生きていた。プリンターは部品交換が必要。 近畿部会メンバーのボランティアを含め、床に散乱した資料の拾い上げ、配架を早い時期に行い、閲覧室、事務室、文書庫、書庫を順次片付けた。使えなくなった什器(書架、キャビネット) の替りがくるまでは、一部の資料は箱詰め、床置きとなるので利用できない。

在地文書:
市内の在地文書は、文化庁ではなく、自前で調査し、電話連絡を行っている。調査対象は、以前文書調査をしたことがあるところ、文書があるらしい所など、合計40件をリストアップ。1月末までのところ、所蔵者の家や蔵が倒壊し、撤去を行う必要が出ているなど、緊急を要するケースが2件あって、すでに (文書は) 引上げた。さらに調査を要するものも数件ある。(幸いなことに、在地文書の状況調査の結果はおおむね緊急性は低かった。)しかし、これまで文書をもっているという確認はされていない。1月末現在、資料を持っていそうな所への目配りまでは手が回らない。


2. 西宮市役所行政資料室

行政資料室の現況
西宮市役所庁舎は、8階建て。6階以上は損傷が激しいので、立ち入り禁止となっている。本来の事務室・書庫は、7階にあり、立ち入り禁止。職員 (嘱託含む) は、行政資料室の臨時詰め所で待機するグループと、市民対応の動員でよそに出かけているグループに二分され、本来業務は停止中。 

建物の5階と6階踊り場に検問所があり、そこで用件と立ち入り先を告げ、用紙に所属、名前、立ち入り時刻を記入し、へルメットを借りて7階の行政資料室へ案内された。7階廊下は壁があちこちで崩れ、配電板が裸になったり、コンクリートが崩れ落ちて鉄筋だけになった部分もある。トイレは使えない。木製のドアの明かり取りのガラスを破って、倒れたキャビネットの扉が飛び出している。


将棋倒しの書架とその間に落下・散乱した資料
(西宮、1月31日撮影)



しかし、今はもうコンクリートやガラスのかけらはおおむね片付けられ、破片を入れた袋や箱が随所に集められている。次の処理を待っているようだ。同じ7階の建設部門の部屋には、文書が散乱したままになっていた。だが、行政資料室の隣にある選挙管理委員会では1月30日、選挙の実施が決まったのを受け、準備のためで立ち入 り禁止の7階で執務を続けている様子だった。5階に設置されていたコンピュータは 「いかれてしまった」との事。「どうやって選挙人名簿の処理をするんだろう。使えるんかいな。直ったのかいな。」 というつぶやきに強く同感する。 行政資料室自体の事務室部分はきちんと片付けられており、一見直ぐにも一般業務は始められそうに見えた。廊下や通路部分には、立ち入り禁止決定まえに一部片付けた本や印刷物の束が平積みにされている。開架式になっていた書庫は、その後は手付かず。当然ながら情報調査・利用は一切 ストップ。案内してくれた待機グループの一人は、「(行政資料室は)情報公開施設でもあるので、できるだけ早く供覧事務は始めたい。」と語った。たしかにここは公文書公開と情報提供が仕事だが、資料は当分積んどくことになる。できるのは傷みの確認か。

被害:
外側の窓ガラスなどは軒並み割れたが、修理した。書庫部分と事務室を分けていたパーティション・ボードは、倒れかかった書架におされてふっとんでいる。上部をスチールの腕木で、連結してあった書架は、将棋倒しになり、その間に図書資料が散乱している。拾えば良い、とはいっても立ち入り禁止区域なので、作業ができず、放置されている。割れた窓ガラスはすでに取換え済みなので、今後の雨や埃は直接的にはさほどの影響をしないかもしれない。だが、建物全体の損傷の具合によっては、雨漏りによる水濡れなどの可能性は残っている。他にも書庫があるとのことだったが、散乱した図書と倒れた書架その他の家具に遮られ、近付けないのでなにがどうなっているのかは分からない。

復旧:
今は市民対応が優先事項なので、資料の片付けは後回しになる。遠からず現在の庁舎の6階から上は取壊しになる。その前にすべてを運びだし、470名の職負は仮庁舎で業務に当たることになる。仮庁舎ができるまでは業務停止となる。資料室の資料は分量があるが、それだけの保管場所を確保しなければならない。(第一法規 『JSAIデータブック94』 掲載のデータでは、この西宮市行政資料室の公文書、行政刊行物は合計1,600メートルほどとなっている。) 復旧作業はやりやすいところから手をつけるつもり。つまり7階は後回しにして、今津 (分室) から始めるというのが実情。




3. 西宮市行政資料室分室 (会津行政資料室)


今津行政資料室内の現況
二階建てコンクリートの建物。避難所になっているらしく、建物入り口には様々な張り紙、行政情報の配布資料が置かれている。資料室は2階。窓ガラスは割れていない。室内は、市役所と同じく事務室はきれいに片付けられ、天井から落ちた蛍光灯や、倒れている旧式大型冷房機が異様にみえる。

数日前、嘱託職員が一人で片付けたという。事故がなくて良かったと思う。
突き当たり壁際の展示ケースのガラスは割れた。しかし、パーティションボードの向こう側の書庫は、書架が動き、資料が散乱している。ここでは木製書架、独立非固定式の道具だなが合計20本ぐらい、いずれも元の位置からは大幅に動いているものの、転倒してはいなかった。木製書架は、転倒のショックでまがってしまうスチール書架と異なり、傾いても起こせばほとんどまた使えることが分かる。小型資料保存ケース (簿冊ごとに収納する厚紙製の容器) に収納された資料は、書架から落下・散乱しても、安定感があった。外見で考えるなら、これは資料保護に有効と見えた。

被害:
ガラスが割れた、蛍光灯が落ちた、などの落下被害が見られる。書架が何ともないし、建物も取り立てて損傷は見られない。ここではマイクロフ ィルムキャビネットが無事であったのが印象的であった。また、容器に収納した資料は、書架から落ちてもそれだけで反古には見えてこないのがおもしろい。これらの点から考えて、資料は落下・散乱で原秩序が失われなければ、被害は少ないといえるだろう。

復旧:
尼崎での復旧のノウハウを生かした力仕事中心の作業が必要だろう。優先順位も高いようなので、片付ければ比較的早く元通りになるのではないか。

在地文書:
別のセクションの職員の方が、自転車で震災直後から各所蔵者を回って様子を聞いている。全体では在地文書の被害はあまり甚大ではない。一軒だけ、市に預けたいという申出があった。なお、行政資料室はもっぱら近代以降の文書を扱っている。



容器に収納した資料は安定感がある
(西宮、1月31日撮影)

4. 芦屋市立美術博物館

(1) 美術部門

博物館内の現況
当分閉館中。若干の救援物資があるが、職員は市の動負に出ている。避難所にはなっていない。建物は1990年秋完成、91年3月オープン。 
美術担当の学芸員は、震災当日昼前に車で出勤した。建物は何ともない。耐震設計が適切であったのだろうか。そういえば、1924 (大正13)年から1926 (昭和 2)年あたりの歴史的建造物の多くは無事だったとも聞いた。 

館内の借用した展示物は50センチ〜1メートル動いたり、幾つかは転倒していた。立っているものは他の職員と協力して寝かせ、これ以上の被害を避けた。廊下に置いてあったものが散乱し、収蔵庫入り口までの通路確保に手間取った。震災で被災した所蔵者の写真コレクションや絵画をすでに受け入れている。事務室は、キャビネットわきに積んでいた若干の書類が散乱した。机の上 (不断から書類が山積みになりがち)、床から天井まで届いているキャビネット類、移動式書架、いずれもほとんど落下・散乱なし。(事務室、倉庫、移動式書架は2階 )。倉庫は都市ガスによる空調なので、現在ストップしている。いつもなら温度20℃、湿度55〜60%に調整しているが、今は11℃、60%。事務室は個別電気暖房なので、今もシステムが生きている。

被害:
建物自体はほとんど何ともない。
折から階用して企画展示中であった作品は、まず破損・転倒をチェックした。この後、倉庫までの通路を確保、倉庫に入ったのは職負の数その他の条件が整った3日目。だが、倉庫のなかでは、床に直接置いていた木製ラックが潰れたり凹んだ。展示中のデビッド・ナッシュの1t余りもある木製の彫刻作品が50センチメートル以上も動いていた。若干の破損もある。ヒートン (額ぶちに付ける吊 し金具) がのびて外れたケースが見られた。

復旧:
当日昼前に出勤した。
デピッド・ナッシュの展示は、埼玉県立美術館が次の会場になっている。修復はそちらに移動してから行う予定。倒れなかった作品は、これ以上の被害をさけるため、立っている作品は今はすべて寝かせている。次回企画展示 「戦後文化の軌跡」 で出品予定であった陶器作品が破損した。これは作家に連絡して再製作することになった。
片付け作業を陣頭指揮した学芸員からは、その経験に基づき 「復旧作業に限らず、1人で行動するなというのが鉄則です。片付けも、慣れた人が2人以上でするのが良い。」 「空き箱はこの様な場合には大変役に立ちます。」 というアドバイスがあった。

在地文書:
被災者になり、住んでいたマンションを急に引き払うことになった写真コレクターや絵画の所蔵者から所蔵資料を博物館へ預けたいとの申出があり、すでに相当量の写真資料や絵画を預かっている。

問題点:
  地震が来るまでは、こういう事態を考えていなかった。事前の対応策は策定なし。芦屋市本庁が混乱した。



(2) 歴史資料

博物館内の仕事
歴史資料 (考古、歴史文書、民俗) の展示。こ の地域では戦災で (市の記録の?) 60パーセントが焼失している。市史編纂を行い、個人文書により、すでに失われた記録の復元を試みている。

被害と復旧
館内では地震で生活資料や弥生式土器を展示したガラス棚が破損した。土器は60点が割れたが、これはもともと割れた物の復元だったので、もう一度復元をすれば良い。
書架の資料では、富田さいかという詩人の文学資料をおさめた棚が横倒しになった(本棚は木製)。特別書庫は、10坪位で床、壁、天井、棚いずれも木製のもの。ここの資料は動いていない。市内の有形文化財 (古い建造物) は全部壊れている。そこで、生活文化資料パトロールと言う事で、毎日資料の様子を調べに市内全域をパトロールして、記録を作成している。個人に会って話をするが、 「完全な物はありません。」  
パトロールは震災後2日目から開始した。傾いたり倒れた家を訪ねあるいている。また、日頃から個人の家に衣裳箱を渡して、日付、事項など記入して保管してもらうようにしてきているので、情報が入ってきた。こうすると代替りの時や今回の地震のような場合にも、捨てられたり忘れられるのを避けられる。聞くところでは、すでに古本屋が被災者の間を回っているということだ。市民からも電話で救済の依頼があった。兵庫県、国(文化庁)からは、地震当日および翌日、「指定文化財はどうなったか」 という問合わせがあった。

建造物は一つずつチェックしながら囲った。パトロールにはテープ、釘など道具一式を車に積み込み、傷んだものはビニールシートをかぶせるなど、直ぐに対応している。文化財を示す看板の「埋蔵文化財」の文字の上に「立入禁止 教育委員会」と書いたテープを貼りつけている。 

文書は、三条村小坂昭雄文書など、個人文書が多い。寄託を受けたものをここで保管している。個人所蔵の市指定文化財、屏風をもらって来た。江戸時代の民家はこの地震にも大丈夫だったが、蔵は駄目。生活資料が納められているまま、損壊した蔵がある。こうした場所にはシートをかけてきた。取り壊すときには、こちらからも立ち会うことになろう。三条共有文書は納められている蔵 の入り口が開かない。しかし、蔵は壊れていない。文書は市に寄託することになっている。

コメント
たくさんの倒壊した文書所蔵者の家の取り壊し作業に立ち会うことは、どの程度可能なのか。機械の作業が始まったら、実際に立ち会い人は、資料の選別や取り出しをどの様に実施できるのか。人手が必要なら、ボランティアも考えられるので はないか。




5. 深江生活文化史料館 (閉鎖中)

現況
あの約500メートルにわたる国道43号線上の阪神高速道路倒壊現場から徒歩15分ほど。周辺は木造モルタル2階建て程度の民家が多く、それが軒並み崩壊している。屋根が落ちている家、二階がおちて道にせりだし半ば道をふさいでいる家が、どこを向いても目に入る。家並が低くなっているので、はるか道の向こう側まで見漉せる。余りの惨状に史料館ももしかしたら、と心配になった。さいわい、生活文化史料館は隣接する教育会館 (?) と共に無事だった。だが、同じ敷地内の神社は屋根だけを残し倒壊しており、境内には炊き出しの焚き火のあとがある。教育会館の人に史料館の事を聞いたら、「当分閉館です。」 との事。建物は外観上の損傷は見られず、鍵がかけられていた。

コメント
常駐職員のいない史料館なので、こういう緊急時の連絡は大変困難である。日頃親しくしている人でさえも、手の打ちようがない。内部がどうなっているのか、生活文化史料は相当散乱したままなのではあるまいか、etc.。連絡の確保、情報の把握、それが復旧への第1歩になる。無人のまま閉館が長引かないことを今は祈るのみだ。




6. 神戸市役所2号館


(建物破壊・閉鎖)
現況
三ノ宮の目抜通りに面し、隣は30階建ての1号館。こちらは被害もほとんど無く、市民の避難所となっているという。が、この8階建て2号館は、6階が完全に潰れ、あたかもタンスの本体と上置きがずれたように建物の上部全体が北に2メートルあまりせりだしてしまっている。潰れてしまっ た6階では1人亡くなった方がある。今は周囲を工事用の金網フェンスで囲い、立ち入り禁止・使用禁止の張り紙があった。建物内部の様子は不明。

被害:
少なくとも潰れたフロアにあった事務室のあらゆる備品や書類は、運び出すこともままならないだろう。潰れなかった上の階への立ち入りは、階段でのアクセスは無理かと思われる。

復旧
新聞報道によると、この建物は取り壊しになるらしい。

コメント
建物取り壊しのまえに内部の書類は搬出できるのだろうか。相当量の現用文書がここで失われることになろう。どこにどのようなものがあったのか、目録など所在・存在情報源はあるだろうか。それらの救出方法はあるか。

どれだけを 「廃棄」 し、何を 「あきらめた」 のか、その方針、手順、なども震災記録のなかにきちんと位置付けるべきである。
関東大震災のときには、失われた資料の詳細なリストが震災予防調査会報告書に掲載されたという。このような詳細リストによってしか、なにが失われたのかを把握することはできない。逆にいえば、これこそが、後世に伝えるべき記録というものになるのであるから、神戸市役所2号館に事務所を置いていたあらゆる部署は、当面の多忙や混乱を理由に隠し立てしたり、手抜きしたりすること無く、確実な 「喪失書類リスト」 などを作成すべきであろう。




6階がペチャンコに潰れた
神戸市役所2号館
(2月1日撮影)

潰れたフロアーは手のつけようもない(3月19日)


3月の再訪


3月19日 (日) 午後3時前、再びこの神戸市役所に来てみた。建物の様子は前回の時とほとんど変わっていない。周辺の崩壊した多くのビルが取り壊されたり取り壊しのために覆いをかけられているのと対照的な感じさえする。

潰れた6階部分をよくみると、ペチャンコになった衣裳ロッカーからネクタイが一本ぶら下がっている。思い切って立ち入り禁止のフェンスの中に入ってみた。明らかに地震のときに6階から落ちてきたのだろうと思われる様々な書類、什器のかけら、ポットや茶托、印刷物などが約2か月をへたこの日もなお当時のままに地面に散乱していた。
片付けなど、とても手が回らないのだろう。散乱している書類ではコンピュータのプリントアウトの束が多く見受けられたように感じた。フェンスの外に出て、さらに建物を眺めていたら、初老の紳士が話しかけてきた。 「あの建物の中の書類は全部業者を使って外に搬出しました。この町の共同溝の図面などもあそこにあったのです。」 だが、市役所1号館の守衛さんに聞いたら 「潰れた6階の書類はどうかな。建物は4階から下は壊さずにまた使うんです。」 ということだった。建物の再利用については 3月29日の朝日新聞でも記事になっていた。



地震倒壊のため地上に散乱した書類や事務用品(3月19日撮影)


まとめ


阪神大震災による史料保存機関5機関6施設の被害調査のなかで共通していたのは、大きな地震 による書架の倒壊とそのための資料落下、散乱が震災被害の中心だったことだ。公共建物の多くは建物自体が崩壊するような壊滅的な被害は受けていない。しかし、書架が倒壊すると、書架上の資料は床に落ちてしまう。資料が床に落ちると、書架上にあったときの配列が失われ、資料としての纏まりや、纏まりに起因する資料の意味合いが失われてしまう。そしてなによりもまず、一目見たときの整然さが無くなる。

床に散乱した資料はただの 「ごみ」 に見えてくる。A館では、散乱したフロッピーディスクが 「なにがなにやらわからなくなった」 という 「被害」経験を聞いた。電子記録に限らず、肉眼で直ぐに読み出せない資料=機械可読記録は、読出し機器がなければ包含する情報内容は分からない。そのために本当は情報を含んでいる資料であるフロッピーディスクが、小さなプラスチック板というモノとしての存在に過ぎないように見えてくる。 

これとは対照的だったのが、マイクロフィルムだ。西宮市行政資料室今津分室では、キャビネット入りのマイクロフィルム群が無事であった。ここでは、マイクロフィルムは紙箱に収納した上で、紙箱ごと専用キャビネットに収納されていた。キャビネットは地震の揺れで元の位置から50-100センチメートルほども動き、引き出しも開いてしまってはいたが、紙箱がきっちり納められていたので、落下も散乱も無かった。つまり、引き出し元通り閉めればマイクロフィルムは何事もなかったように元通りになったのである。標準化されたサイズ、専用のキャビネット、しかもちょうどきっちりと引き出しが一杯になっていたというこ とで、マイクロフィルムはその安定性が証明された。おなじように標準化されていても、先の散乱したフロッピーディスクの場合は収納方法が必ずしも適切ではなかったので、混乱したといえるだろう。

なお、マイクロフィルムとともに、資料保存箱に収納した資料にも安定感を感じた。箱に収納された資料は、散乱ししてもそのことだけで 「ごみ」 には見えてこないという特徴があった。これは外見が標準イヒされ、かつ箱で保護されるので散乱による傷みがほとんど見えないためだ。箱に収納すると収納スペースを本体だけの場合よりもよほど多く必要とすることが、箱収納のデメリットではあるが、一方で阪神大震災の様な甚大な災害に際しても資料本体を相当に保護できる箱収納のメリットをもっと大切にすべきだと考えた。


何事もなかったようなマイクロフィルムキャビネット
(西宮、1月31日撮影)


資料保存機関における地震被害対策の基本は、落下被害を最小限に食い止めることにありそうだ。そのためには、マイクロフィルムや資料保存箱の採用、確実なラベル付け、勤務時間終了後のキャビネット類の施錠確認などは、日常的な防災対策だろう。また、一旦書架やキャビネットから資料が落ちて床に散乱してしまったならば、これを元の位置に戻すためには、配架リストが非常に役に立つ。手間のかかるのは百も承知だが、落下被害の対応策として、配架リストは資料の確実な保存と管理のために必要なものである。